サザンドラに焦点を

久しぶりである。





最近は、寂しいし他人がほしいけど多分もう二度と他人の事を受け入れる事はできないのだと思い始めた。


寛解の様子は人それぞれだ。

みな「症状は100人いれば100通り」と言う。

それは間違っていないと思う。

でも寛解、いやもっと広義的に言うと「自己肯定感の上げ方」や、「生きやすくなるためには」系の言葉は全て一緒だったりする。

みんな型にはめようとしてくる。

自己肯定感が上がる=生きやすい

生きやすい=自分の人生を歩む

そんな等式を学校の授業のように黒板の文字を板書させるように教えてくる。


正直私は違うと思う。

生きやすさこそ人それぞれだと。


多分私の場合は他者と一線引いた上で関わるという行為を続け生きていく。

多分それが私にとっての生きやすいだと思う。

無理に自尊心を育てなくていい。

今のこの孤独感も多分ほぼほぼ永久的だ。

だからこの現状常に感じるどうしようもない孤独感を、どう“波”にするかがキーだと思う。

どう「いまそういう時期なの〜」と言えるようにするか。

根底には疎外感や孤独感がある。でも、普通に笑顔が繕えて、他者との関わりを柔軟に、スムーズに進めていく事に対して受け入れる。

でも時々本当に一人に苦しくなる時期がある。

そんな人生。


私は多分これからワイワイアカウントを作らないと思う。

作ったとしてもすぐアカウントを消すを繰り返す。

こうやって他者を拒絶するのが“自分”なのだとどう受け入れていくか。


多分私はもう他人を自分の領域に招き入れる事は無い。




いつの日からか“理想の家庭像”を追わなくなった。

そうだな、ここ最近かもしれない。

「私の話を聞いてくれる人なんて誰もいない」「話すだけムダ」「じゃあもう一人で抱えて生きていこう」

そう思い始めたからかもしれない。

昔はもう来る事は天地がひっくり返っても無いと分かっていても「いつか平和な家庭がまた再構築される」などと心のどこかで追っていて、苦しかった。

その理想の家庭像とは、いつも安全で、心の拠り所になり、時には忠告やアドバイスがもらえたり、時には喧嘩もして言い合いもする、だけど仲直りが確約されていたり、みんなが自分の味方になってくれたり、お母さんが私の満足する言葉をかけてくれたり。

そんな家庭が私にとっての標準で、みんなが持っている家庭なんだ。

そう思っていた。

自分のエゴまみれだね。

でももうそれも追わなくなり、今はただただ「この冷たい人間達とどう関わっていくか」としか考えていない。

正直な話、もう“家族”じゃなくて“他人”になっている。

常に思っていた。

「家庭というのは社会の縮図」だと。

でもどこかで納得がいっていなかった。認めたくなかった。

でも、やっぱりそうでした。

なのでもう私の中に家庭という環境は無く、普通の他人より少し深い関係の、他人。

そんな具合だ。

私と母親の関係性も親友以上恋人未満の”何か“だと思う。

親だけど、親じゃない。家族だけど、家族じゃない。友人でもない。

何か、と表現をしたのは本当に得体の知れない関係性だからだ。

それは、名前もつけられないような、曖昧だけど結びつきの強い何か。

そういう事である。

でも、この他人の中の誰か一人が死んだら、私は絶対に泣くだろう。

他人だけどそれ相応の思い出たちがあるからだ。

色々な知識を教えてもらったし笑い合った思い出もきちんとあるので。







最近はもう、自分一人でどう苦しみを消化していく術を持つかしか考えていない。