おはよう

なぜブログを始めたのか。
多分すぐまた止まる。
人が嫌になったのでほぼ誰もいないアカウントに閉じこもった結果こうなった。
要するに、絵からも人からも逃げた。
薬を変えてから手が震えなくなり、フォロワーをどんどこ減らし承認欲求が死に、学校そしてもちろんTwitterという競争世界から身を引いてから絵が楽しくなってきた。小学生以来だと思う。そして色んなヤベエうめえ奴らの絵に目移りしなくなり、そこそこ自分の絵に満足のいくようになりインスタの油絵などの絵のメイキングを見ても納得できるようになったからまた創作BLアカウントが創作BLアカウントとしてちゃんと動いている今。

そんな中なぜ死んだはずの承認欲求のようなもの、そうこのブログとかいうものに手を出したか。
その答えは簡単
「一人が悲しくなった」
その一言で完成されている

みんなが楽しそうにワイワイしているのを見ているのがつらくなった。
おいどんだって一人は嫌だ。
でもいつも独りに自ら突っ込んでいく
楽しそうなのが悔しい
自分が楽しめばいい、それだけの話だが結局いつもワイワイアカウントを作っても続かないのだ。

だから誰が見てるかも分からない事をいつもしている。
「誰かが拾ってくれているかもしれないし」
という状態にいつも酔っている。
こうすれば一人を維持できるし一人じゃないかもしれないし例え結局一人だとしても自分は分からない。
「悪口は知らなきゃ言われてない」
そんな感じ。
まあ私は妄想世界が著しくひどいので頭の中は悪口でいっぱいですが。他人から自分も、自分から他人も、自分から自分も

どうでもいいけど、母親の病気、早く治ってくんないかな。
まあどこをどう見ても再発する未来が統計的には高いのでどうしようもないんだけどネ
寛解3割だぜ?
無理だろ。

閑話を休に題しちゃったけど、戻る
正直今こうやってみんなとワイワイしたいなあ絵なんて見てもらわなくてもいい、みんなと繋がりたい、話したい、喋りてえなあって考えてるのを妄想するだけで自分さんに「馬鹿じゃねえの」って思われてんですよね。
この「馬鹿じゃねえの」は、「結局今の悩んでる渦中の自分を放って結局“みんな”に溶け込むんだ。ふうん。裏切るんだね。」という「馬鹿じゃねえの」なので、自分さんを上手く手放せばいいのよね。
でも手放したところでって、感じしない?
だって自分さんを手放してそれでまたワイワイみんなとやろうとしても今度はまた邪念ばかりが邪魔して結局アカウント消して人間から逃げるって未来が、丸見えなんですよね。
んでまた自分さんに「ほらやっぱり」と言われるだけ。テメエは「おかえり」も言えねえのか。主人が帰ってきてんだぞ。もしかして主従関係逆?

上手くゆがけた肉は美肉と言う。